2009年06月17日

即興によるシーンを成功させるためには

即興によるシーンを成功させるためには、話の中心(focus)を定め、出演者たちが協力し、それぞれが責任を持ってその物語の性格や流れを定義していかなければならない。シーン中のセリフや動きによって、他のキャラクタに名前を与えたり、場所や関係を明確にしたり、あるいはジェスチャを用いて空間を定義してゆく。このように、シーンを構成してゆく行為を特に「オファー(offer)」と呼ぶ。これは「エンダーメント(endowment)」とも呼ばれている。出演者は、共演者のオファーを受け入れる(accept)ことが重要である。オファーを受け入れない行為をブロッキング(blocking)と呼ぶ。これは往々にしてシーンの進行を妨げることにつながる。中には、故意にブロッキングをする(あるいは役柄を抜け出す)ことによって笑いを得ようとする役者もいるが、一般的にはシーンの進行を妨げる行為であり、多くのインプロバイザは敬遠する。オファーを受け入れることによってそれは同時に新たなオファーを追加することになり、結果的にシーンをより早く構成することができる。これこそが、インプロバイザたちが「イエス、アンド…(Yes and)」と呼ぶものであり、即興劇の技術の要となるものである。すなわち、相手からのオファーを「イエス」と受け入れた上で、さらに「アンド」する、つまり自分から出したアイディアを追加することで、即興劇中の世界観・設定・登場人物たちの関係・ストーリーなどが構築されていくのである。

即興はまた、観客との間に強い関係を作る。演者たちは、しばしば観客に提案を要求する。それは、単に発想のタネを得るばかりでなく、観客をより一層巻き込み、楽しませることにも貢献する。さらに、それが本当に即興であって台本は用意されてないということの証明にもなる。

即興劇の中で、喜劇的なエンタテイメント性に重点を置いたものを特に即興コメディと呼ぶ。

即興劇においては、通常の演劇で用いられるような「小道具」は準備することができない。汎用的な小道具を用意していることもあるが、多くのパフォーマーはパントマイムの技術を用いてモノを作り出す。すなわち、手の形や動きでモノを表現する。作られたモノは、安定して存在し続けることが要求される。机や壁を歩いて通り抜けるようなことがあってはならない。

即興役者は準備無しに様々な役柄を演じ分けなければならないため、キャラクタの物理的特性、仕草、言葉のなまり、声質、などを瞬時に切り替える技術が要求される。異なる性別、かけ離れた年齢を与えられる場面も少なくない。 作られたキャラクタの「行動目的」は、シーンを成功させる重要な要素である。即興役者は、その演じている役がいったい何をしたいのかを感じ取らなければならない。

多くの即興役者は、通常の台本芝居の役者としても活躍している。即興の技術は普通の演劇のクラスでもしばしば教えられる。即興は役者のトレーニングとして用いられる。即興を通して得られる技術、すなわち、聴くこと、わかりやすく表現すること、自信を持つこと、考えずに演技すること、などは、一般の役者たちにとって重要なスキルであると考えられている。。
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多くの劇団が様々な即興パフォーマンスを舞台で公演している。最も有名なものの1つは、キース・ジョンストン(Keith Johnstone)が作った国際団体「シアタースポーツ(Theatresports)」である。彼は、即興劇の発展に多大な影響を与えた本、Impro の著者でもある。

即興劇に大きな影響を与えたもう1つのグループは、「シアターゲーム」の創設者であるヴァイオラ・スポーリン(Viola Spolin)とその息子ポール・シルズ(Paul Sills)が中心となっているシカゴの団体「セカンド・シティ」(Second City)である。彼らは、ストーリー・シアター、デル・クローズ、ImprovOlympicの基礎を築いた。ロングフォームの形態として知られる "ハロルド" の生みの親でもある。

2009年05月31日

檀君神話への傾斜

これほど信奉された箕子朝鮮であったが、民族意識の高揚した近代以降においてはまったく逆に、中国人起源の箕子朝鮮は顧みられぬこととなった。韓国・北朝鮮ともに太白山(現・白頭山。中国と北朝鮮との国境)に降臨した天神の子の檀君が朝鮮族の始祖であり、ここから始まる檀君朝鮮こそが朝鮮の始まりと主張。現在の歴史教科書にも記述されている。韓国・北朝鮮の両国において白頭山が特に尊ばれ、その聖地に対して中国が自国の領土として単独での世界遺産登録を目論むことに強く危機感を募らせるのは、このような理由による。
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近年、中国社会科学院の中国辺疆史地研究センターを中心に「古朝鮮・高句麗・扶余・渤海は中国の地方政権であり、その歴史は中国史の一部」という“東北工程”の史観が唱えられ、近隣諸国から注目を集めている。もともと住民の大半が非漢民族である中国東北部において、ナショナリズムを高揚させるための国内政治目的と見られるが、「高句麗の住民は中国の少数民族であって韓国とは無関係である」とか、また箕子朝鮮については「箕子の存在を殷代の甲骨文字と前秦の記録から確認することができ、(中国人である箕子が)朝鮮半島に最初の地方政権を建てた」と漢人創始を強調するなど、その主張の内容は決して穏やかではない。

これに対して韓国文化財庁は、「韓民族の歴史が(満州などの)東北地域につながっているという事実とそれを主張する『縁故権』を払拭するために開始されたもの」と大きく反発。さらには、近々崩壊が囁かれる北朝鮮を中国へ吸収するための準備工作と見て警戒する動きもあり、この箕子朝鮮論は単に古代史解明のための論議に留まらない、きな臭い現代国際政治の側面を見せ始めている。

2009年04月27日

固体燃料ロケットの歴史は古く

固体燃料ロケットの歴史は古く、誘導方法を持たないものとしては、10世紀ごろに中国で作られた火槍や火箭(「かせん」と読む。「箭」は「矢」の意味)がある。これは黒色火薬を燃料とした無誘導弾のようなものであり、モンゴル軍と戦う際も用いられたようである。元寇の際も他の火薬兵器と共にモンゴル軍により使用され、日本の兵士を苦しめた。 なお現代の中国語では「火箭」と言うとロケットのことを言う。

火箭は現在のロケットとはかけ離れており、現在の技術基準で言えばロケット花火のようなものであった。また火薬の調合技術も未発達であり、信頼性は高いとは言えなかった。ただ当時は武器自体が自らの力で飛翔するという画期的な武器であり、見たことのない人に対しては、その異様なものは心理戦の面で有利であった。火箭についての情報は書物にも残されている[1]。

その後シングルベース火薬やダブルベース火薬ができると、ロケット弾や、日本軍の特攻兵器である桜花の推進剤にも使われた。 しかし本格的に大気圏外を飛翔するロケットの推進剤として使用されるようになったのは第二次世界大戦後のことである。

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その頃は、ソビエト連邦のR-7、アメリカのレッドストーンに見られるように、ロケット(弾道ミサイル)はおおむね液体燃料ロケットが主流であった。しかし液体燃料ロケットは重量対の出力に優れる反面、長期保存や即応性の問題から、ロケットはともかく、万が一に備える必要のある弾道ミサイルに使うには欠点があった。そこで固体燃料ロケットの開発が進み、弾道ミサイルやロケットなど、大型の固体燃料ロケットができることとなる。

しかしまだ弾道ミサイルが液体燃料が主流であった頃から、小型の対空ミサイルや対地ミサイルは、即応性が必要とされ、液体燃料ロケットでは部品点数が多く小型化が難しいことから、固体燃料が使われていた。この状況は現在でも変わらない。

2009年04月11日

北アメリカ星雲

北アメリカ星雲(きたあめりかせいうん)(NGC 7000) ははくちょう座の尾部、デネブの近くに見える散光星雲である。18世紀の天文学者ウィリアム・ハーシェルによって発見された。形が北アメリカ大陸に似ているところから名づけられた。見かけの大きさは面積にして満月の十倍ほどと広大であるが、暗いため肉眼での観測は余程空の暗い場所でもなければ、ほぼ不可能である。ある程度の口径と広い視野角を持つ双眼鏡を使えば、しみのような星雲の姿を観測することができる。赤い星雲の姿を確認するには写真撮影する必要がある。

実際には、北アメリカ星雲とその隣にあるペリカン星雲とは、電離した水素からなる同一の星間雲の一部である。星雲と太陽系の間には別の宇宙塵を多く含む暗黒星雲の帯があり、これが星と星雲の光を吸収するため我々の知る星雲の形となっている。星雲までの距離は特定されていない。この星雲は近くの恒星の紫外線を受けて発光しているので、紫外線の元となる恒星が分かれば距離を特定できる。一説によればその恒星はデネブであり、それが正しければ距離はおよそ1800光年、星雲の実寸は100光年となる。

イルカ カッション イナリー ヒンズー ケミカル ヤブラン おりあお パララ アリーナ テリア キンバ マキャベ フードル ハイファイ マイル けんち バルジ ビリティ ビスケ ボール オセロッ ロス ストップ マリン ローエン ランタナ ギブアウ キドニー コーヒー ヒヤシ ファクタ ジュレハ ショベルカ ライフ リック ドレス シーエム ガヤツリ レーン ケション ナラタ プレイ デパオク グロテ ハジャイ トリック シロシ ドット リナッ フィア

2009年03月27日

フランク人

フランク人(ふらんくじん, 英:Franks/独:Franken)は、西ヨーロッパにおいてフランク王国を建国した事で知られる部族集団。ラテン語ではFranci(フランキ)。語義は「自由な人」「勇敢な人」を意味すると言われ、英語で率直な性格を表す「フランク」の語源ともなった。また彼らの持つ独特の武器(フランキスカ)が民族名の元となったという説もある。西ローマ亡き後の西欧を支配する王国を建設したことから、東方の東ローマ帝国やイスラム諸国では一時、西欧人を指す言葉として用いられた事もあった。また、中国や日本でもポルトガル人などの西欧人や彼らがもたらした銃砲類を指して「仏郎機」という漢字が用いられていた。

彼らを一つのエスニックグループとして捉えるかどうかについては長年に亘って議論が続けられている。近年の歴史学では「フランク」ないし「フランク人」という民族が存在したのではなく、ゲルマン系、イラン系、ケルト系、ラテン系の諸部族・諸集団の離散集合によって形成されていた一種の連合政権(同様の例にフン族がある)であったとする考えが主流になりつつある
勢力の形成 [編集]
フランクは、紀元前1世紀の「ガリア戦記」や1世紀の「ゲルマニア」に記録されたような他の古い勢力と違い、その存在は3世紀半ばになってから歴史上に現れる。しかも、他のゲルマニアの民族(部族)名が特定の集団を指したのに対し、「フランク人」は、ライン川とウェーザー川の間の地域に居住したカマウィ人やブルクテリ人といった複数の民族の総称として用いられた。

こうした異なる背景を持つ複数の民族の連合体として生じたフランクは、髪型や武装を統一する事を帰属概念の指標としたことが知られており、王族が長髪を切らずにたなびかせた一方、一般戦士の男性は後頭部を剃りあげた。またフランキスカと呼ばれる投げ斧やアンゴという投槍を共通武装とした。そして彼らはその出自や民族を問わず、これら共通の髪型と武装をし、共に戦う者は皆同じフランク人であると見なしていた。

358年にローマ帝国の皇帝ユリアヌスは現在のオランダ南部に当たる地域から現在のベルギー北西部に当たるトクサンドリアにサリー(Salii)と呼ばれるフランクの一派を移住させ、帝国軍への奉仕軍隊(laeti, ラエティ)とさせた。この「サリー」という集団はバタウィ人、シャマーヴィ人、フリース人などから構成されており、トクサンドリアでは先住のシカンブリ人とも融合した。

さらにこの集団は政治的地位を高めてローマ帝国の同盟者(foederati, フォエデラティ)の地位を獲得し、同じ地位を持つゲルマン系のサクソン人やフリース人、イラン系のサルマティア人、更にはラテン系・ケルト系の地元住民すら同胞として迎え入れていった。この共同の軍役を条件にローマ帝国から付与された居留地をテラ・サリカ(terra Salica)と呼び、ともにこの土地に入植し、軍役を果たす兵士はサリー・フランク人と呼ばれるようになった。
ストアッ ソードフ こりー テレホブ ヘンジ ガーべジ ミュータント アシッド ゲリコ チェスト キャリア オープン モンゴ ストリー ビッチ シェイク モック マジャ クリアス テネリ ロム ジュエル ルブリク リムジン エナメルレ ダルフ ファウ ライト デスク ロック カクテル セシウム リカステ キンレン モンキ 花の坊 ワイン ウィキ ミゼット サイコ ステージ 黒船 ゲルマ オメガ ハリウッド ソーラー ケイン セレナイト テーラー フロップ

このサリー・フランク人の間で形成された文化が残したと考えられているのが、4世紀の後半に北ガリアに出現する行列墓と呼ばれる遺跡で、頭部を東に向けて遺体を埋葬した墓穴が整然と列をなしている。この文化によって新たな文明が誕生したとみなした考古学者のヴェルナーは、1950年に「行列墓文明(Reihengräberzivilisation)」という概念を提唱した。この行列墓では遺体は、盛装した上で武器を副葬するというゲルマン的伝統に繋がる方法で、ローマ的伝統に繋がる石棺に埋葬された

2009年03月12日

ヴェーリア (アシェーア)

ヴェーリア地区は、イタリアのカンパーニア州サレルノ県アシェーアに属する、遺跡の残る地区である。ヴェーリアという地名は、古代都市エレア(Elea)のラテン語名ウェリア(Velia)にちなむ。この古代都市は、本来、マグナ・グラエキア時代に当たる紀元前538年から同535年頃にギリシャ人たちによって建造されたもので、当時はヒエレ(Hyele)といった。この町が有名なのは、哲学者パルメニデスやゼノンも含むエレア派の根拠地だったためである。

古代エレアのアクロポリスの遺跡はかつては岬にあったものの、現在は内陸にあり、中世にカステッランマーレ・デッラ・ブルカ(Castellammare della Bruca)と改称した。
アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ

ヘロドトスによれば、紀元前545年にペルシャ軍に攻囲されたイオニア人たちは、ポカイアから逃れた。8年から10年ほど海上を漂った後、彼らは現在のイタリア・カラブリア州に辿りついた。彼らはおそらく、当時メッシーナにいた哲学者クセノパネスの助力を仰ぎ、海岸沿いに北上し、ヒエレの町を建設した。後にエレ(Ele)と改称し、さらにエレアと呼ばれるようになった。この町の緯度は、ポカイアとほぼ同じであった (Cca. 1' 20" North)。

エレアはルカニア人たち(Lucanians)に征服されることはなかったが、結局は紀元前273年にローマに併合され、古代のルカニアに組み込まれた。

遺跡
門やいくつかの塔の痕跡の残る総延長約5 kmに及ぶ市壁の遺跡が現存している。それらは3つの異なる時代の産物だが、そのいずれにも地元で産出する結晶質の石灰岩が用いられている。より後の時代になるとレンガも用いられるようになるが、その形態はこの場所に特有のもので、片側に2つの直方体の溝が引かれ、面積約10 cm?、厚さ約10 cm である。それらはいずれもギリシャのレンガ印が捺してある。遺跡には貯水槽跡や建造物群の遺構なども残っている。

2009年02月23日

シナリオモード (激闘編)

旅立ち編のクリア後に選択可能(一作目には存在しない)。「シナリオ」と付いているが、シナリオはオマケ程度でバトルがメインとなる。各地で開かれている大会に参加し、トロフィーを狙うのが目的。トロフィーの獲得数に応じて新たなパーツなどが手に入る。
ヤーダ ひまわり ヘンチック ロミア シロタ イングラ カフジ はばたけ チンナカ テライト オーツ インチ ウバナ ミクロン スカウト ドットコム ティアラ きょうせい ニードル シュート ヒュー パート フラッ バタフライ メイド ケミカ 大葉春菊 一寸法師 ポリス ギアナ ニガナ リルフール フィック バネー ビー玉流し ダンディ インプット らんぐい ムール ものう ユニーク ムベ ジップア のぎつね ロッテル モヘンジ ハウス タンドー ブロージ リグニン

「やり込み要素が少ない」と批判された一作目の反省を生かし、スコアアタックとしても遊べる作りになっている。そのスコアは以下のように計算される。

残りHP:1ポイントにつき30点
スコアに最も大きく左右する要素である。ノーダメージのパーフェクトだと30000点(GC版ではさらに+5000点されて35000点)となる。
『BR』の2on2、2on1(逆ハンディキャップバトル)では、2体分の合計HPが計算される。
残り時間:1秒につき100点
画面には1秒単位で表示されているが、実際には1/10秒単位で計測されている。スタート時が12000点(2on2とタッグバトルでは18000点)で、タイムアップの場合は0点となる。
ロボ撃破:1体につき10000点
「LOSE」にした敵の数だけカウントされ、1on2(ハンディキャップバトル)や2on2(タッグバトル)なら20000点、1on3(4人でのバトルロイヤル)なら30000点である。当然ながら、タイムアップになった場合に残っていた敵の分の得点は得られない。ちなみに、HPを0にする攻撃が自分以外であっても得点が加算される。『BR』のみ該当。
コンボ:1ポイントにつき30点
画面左上に表示された「COMBO」の最高数が対象となる。200コンボで6000点、300コンボで9000点といった具合になる。『激闘!』のみ該当。
リトライ:1回につき10%分ずつ減点
1回やり直すと0.9倍、2回やり直すと0.8倍、3回やり直すと0.7倍…となる。9回以上は0.1倍に固定。『激闘!』以外が該当。
違法パーツ使用は50%減点
ただし、DS版では違法パーツの使用数によって減点率が異なり、1個で30%減点、2個で35%減点、3個で40%減点、4個で45%減点、5個で50%減点となる。
ハンディキャップを使用した場合、相手のHPを減らした割合分だけ減点
なお、相手に3連敗(GC版では2連敗)すると25%(スコア×0.75)、5連敗(GC版では3連敗)すると50%(スコア×0.5)、7連敗(GC版では4連敗)すると75%(スコア×0.25)のハンディキャップが使用できる。
5ラウンドで使用したパーツの使用数によって最終スコアが乗算
『激闘!』におけるアーケードバトルでのボーナス要素。全ラウンドの合計得点に一定の倍率が掛けられる。使用パーツが5〜10種類では1倍だが、11〜15種類だと1.2倍、16〜20種類だと1.6倍、21〜24種類だと2.2倍、25種類(全ての部位が各ラウンド毎に異なる)だと3倍にもなる。

アーケードモード
コンピューターとの勝ち抜きしていくモードである。コンピュータと連戦しての成績を競う「ステージクリア」、コンピュータとステージやカスタマイズを指定して1戦だけ行う「フリーバトル」、2人で対戦する「VSモード」で遊ぶことができる。

『激闘!』ではアーケードモードとフリーバトルがシナリオモード内のロボステーションと呼ばれる施設内に統合され、VSモード(ワイヤレスプレイ、Wi-Fiコネクション)はタイトル画面から選択する形になった。

「アーケードモード」という名称が使われているが、このゲームシリーズがアーケードゲームとして稼動したことはない。

VSモード
対人の対戦モード。相手のHPを0にするとKOとなり、HPが残っている方の勝ちである。制限時間をつけて対戦することもできる。制限時間が過ぎても両方ともKOしていない場合はHPの多いほうが勝利となる。同じ場合は引き分け。基本的にHPは1000。実力差がある場合のために、HPのハンデ設定ができる。V2以降ではHPを減らすことはできても、ハンデ設定でHPが1000以上に増やすことはできない。これは、実力のある人が意図的に自分のHPを増やすという使われ方をされないようにするためだと思われる。

据え置き型ゲーム機向け(『初代』、『V2』、『BR』)の場合はロボのカスタマイズに使用されるパーツはプレイヤー各自がゲームデータを持ち寄る形ではなく、ゲーム所有者のシナリオモードで獲得したパーツのデータを共用する形になる(つまりプレイヤー間で使用できるパーツの差は存在しない)。カスタマイズ画面では各プレイヤーが同じ画面でカスタマイズを行うため、ゲーム開始まで相手のカスタマイズがわからないように工夫されている。

携帯型ゲーム機向け(『GX』、『激闘!』)の場合は各プレイヤーのカートリッジのパーツ取得状況を使用する(実際はシナリオモードをクリアしていればパーツを大体網羅できるため大きな差は生まれない)。対戦の他にも余分なパーツを他のプレイヤーと交換する機能も用意されている。

2on2モード
2対2の4人で対戦をするために『V2』で追加されたモード。4人対戦といっても戦っているロボは2体のみで、残りの2体は戦闘に参加せずに控えている状態にある。基本的な操作はVSモードと変わらない。

チームのどちらか一方がKOされると勝負が決まる。「Cボタンユニット↑」もしくは「Lトリガーボタン」で控えのロボと交代できる。交代すると7秒間交代できない。控えのロボのHPが150以下だと自動的に回復する。しかし何回も交代していると回復速度が落ちてくる。ストーリーモードの登場キャラクターがこのモードを説明してくれる。バトルレボリューションからはこのモードはタッグバトルと称される。

『BR』の2on2は交代制ではなく4体のロボがホロセウム内に同時に参加して戦う。敵チームを2体ともKOさせなければ勝負がつかない。2体が1体を集中的に攻撃するなど作戦の幅が広がった。基本的に仲間のボム、ポッドの爆風には巻き込まれダメージを受ける。ガンから発射されるレーザーは仲間に当たらないが、設定を変えれば当たるようになる。Cスティックを弾く等することによって狙いを変える事ができる。どの方向に弾いても狙いは変わる。

ロボ、パーツ一覧
カスタムロボのロボ、パーツ一覧を参照。

用語説明
アイ・コンタクト・レジスター
ロボを、最初に目を合わせた人物以外の操作を受け付けないようにするシステム。
ロボキューブ
ロボを持ち運ぶ時の姿。
コマンダー
ロボを操縦する人。
KO
対戦でどちらかのHPが0になること。
PERFECT
一度も攻撃に当たらないでどちらかが勝つとこの表示が出る。
DRAW
同時に両方がKOするかタイムアップになったときHP残量が同じだったときに表示される。同時KOはポッドなどを相手に当てようとしたときに、近すぎて自分も当たってしまった場合に多く発生する。一方、ダメージは攻撃が当たった距離とロボ固有の防御力で算出され、それによってたとえ同じ攻撃でも1の位までダメージに変動があるので、HP残量が同じ状態でタイムアップする場合のDRAWはなかなか見られない。
ダイブ
精神力を使ってロボを操縦すること。遠隔操作は多くの精神力を必要とする。2人以上のコマンダーが1体のロボにダイブする、「デュアル・ダイブ」も存在する。
ホロセウム
ロボを使ってバトルするフィールド。場合によってはホロセウムを使わずに現実空間でバトルすることもあった。その場合はキャノボットが出現せずいきなり直立の状態から始まった。『BR』ではコマンダーが独自のホロセウムを持っていることもあった。
ポータブルホロセウム
携帯用のホロセウム。『V2』より登場。「技術化進歩して携帯できるようになった」という設定。
ゼロGホロセウム
『GX』で登場。「ゼロG」とは無重力(Zero Gravity) のこと。
キャノボット
ロボキューブを打ち出すロボット。『BR』では4人同時対戦が可能になったため、リニューアルされている。
自律機動型
コマンダーを必要とせず自分の意思で動くロボ。ドレッドやゴライアス等の犯罪組織がよく使用する。
ポリス隊
カスタムロボを悪用した犯罪から守るための組織。構成員もコマンダーである。『GX』ではマモルが所属していた。
グレイバム
カスタムロボを悪用する秘密結社。『激闘!』に登場。
バウンティーハンター
依頼を受けて、カスタムロボを使って色々な事件を解決する人のこと。『BR』に登場。
スティルハーツ事務所
主人公が勤めるお金のない小さなバウンティハンター事務所。社長はアーネスト。「バカンティハンター」と言う愛称で親しまれて(?)いる。
セーフティ装置
対戦相手にケガをさせないようにするためにカスタムロボのパワーを制御するための安全装置。違法パーツはこの装置を起動させていないので直接にコマンダーへのダメージとなる。この設定は『BR』のみ。
ゼクス
活動目的、本拠地、構成員などが一切不明の謎のシンジゲート。バトルレボリューションの主人公の父が総帥を勤めていたが近年死去したため、オボロ派、イライザ派などの派閥に分裂し、独自行動を起こしている。ちなみに幹部セルゲイによると、世界を滅ぼしたロボ、アールの封印を目的とした組織とのこと。
ハーフダイブ
他人がアイコンタクトレジスターしたロボの中にダイブして、その「残留思念」を読み取る、本来あるべきではない特殊能力。使用すると肉体的・精神的に大ダメージを受けてしまう欠点があり、連続使用は難しい。残留思念を読み取るだけで、ロボを動かしたりバトルをしたりといったことはできない。

登場キャラクター
『カスタムロボ バトルレボリューション』の登場キャラクターは、カスタムロボ バトルレボリューション#登場人物を参照。

『カスタムロボ』
主人公
カスタムロボ初代主人公。青い髪とバンダナが特徴。母親からシャイニングファイター型のロボ、レイをプレゼントされたことからカスタムロボを始め、シンイチ・カリンらとグレートロボカップチャンピオンを目指すと共に、闇組織ドレッドの陰謀に巻き込まれていくこととなる。因みに、父親はいつも家に居り、一体何の仕事をしているのかと思うが、実は小説家であることが物語中盤で明らかになる。なお、彼は台詞の無いタイプの主人公だが、『V2』でチャンピオンとして登場した時は少しだけ喋る。また、『GX』ではカリンの台詞から海外留学しているらしいことが伺われる。
ママ
主人公の母親。主人公にレイをプレゼントする。職業は医者で、ユリエの主治医をしている。
シンイチ
第一作の主人公の従兄弟。主人公のパートナー役の1人。小柄な体躯と眼鏡が特徴。温厚な性格で初心者の主人公に丁寧にカスタムロボの基本をレクチャーする。カリンにはやや振り回され気味。使用ロボはリトルレイダー型のロビン。
カリン
シンイチの友人。主人公のパートナー役。自称「元気印のコマンダー娘」で、本当に元気一杯で男勝りの女の子。黄色いバンダナが特徴。いつも元気にロボバトルをしており、その腕は町内でもなかなか評判。マモルに憧れていて、「同じホロセウムに立つ」のが夢。使用ロボはエアリアルビューティー型のフレア、フレアMk-II(GX)。
ユリエ
マモルの妹。第一作登場時は病弱で内気な性格だったが、『V2』で病気が完治してコマンダーになってからは180度変わって直情径行おてんばな性格になった。髪型も、初代ではストレートロング、『V2』ではボリュームあるセミロング、『GX』ではまたロングヘアと変わっている。『V2』では初代でドレッドに狙われた経緯からか「遺法パーツを使う人間は大嫌い」と言っていたが、どういうわけか『GX』ではダークステーションに出入りしており、たまに遺法パーツも使う。その間にどんな心境の変化があったのかは謎。(マモルもその事には気がついていないようだ)また『激闘!』ではアイドルコマンダーになったといわれている。使用ロボはエアリアルビューティー型のプラネッタ(V2)、フェーベ(GX)。ちなみに趣味はマスコット作り。(ただし、形はかなり異質らしい)
マモル
第一作で、主人公が勝つまで3年連続グレート・ロボ・カップの優勝者だった。『V2』では現役コマンダーを引退してポリス隊を目指す。そして、『GX』では見事ポリス隊に入隊を果たし、再び物語の中核をなす人物のひとりとなる。『バトルレボリューション』では激闘編でコンピューターが「伝説の最強コマンダーマモル」のバトルデータを起動しようとするが、フカシに乱入(ハッキング?)され、結局未登場。使用ロボはワイルドソルジャー型のカーライル、パトリオット(GX)。『V2]で主人公とユリエのデートに猛反対していた。
ハヤオ
第一作の主人公のライバル。もともとはカスタムロボには興味も無かったが、主人公がカスタムロボを始めたのを見て自分も始め、メキメキと頭角を現すこととなる。つっけんどんとした性格だが、秘かにユリエに恋心を抱いており、その面でも主人公と対立する。また『V2』激闘編の序盤でユリエとのデート権を巡り『V2』主人公やツルギともライバルになる。さらに激闘編中盤では、ユリエの趣味や好きな科目、ネットでのハンドルネームなど、彼女に関する知識を披露し、だんだんとストーカーじみてくる。使用ロボはシャイニングファイター型のソル、ソルMk-II(GX)。
フカシ
唯一全作品に登場しているキャラ。作中ではもっぱらギャグキャラとして扱われる。様々なカスタムロボ大会に乱入したり、敵組織に潜入する主人公達に勝手についてきたり、さまざまな騒ぎやトラブルを引き起こす。人間の友達ができないらしく、『V2』ではサルのシーサーやイルカのクレオパトラ、『激闘!』ではオウムのデカドンを引き連れている。使用ロボはファッティバイス型のドデカン、ドデカンターボ(GX)。『バトルレボリューション』の旅立ち編では賞金首として名前が登場したり、スティルハーツ事務所の壁にお尋ね者として顔写真が載っていたりする。激闘編ではコンピュータバトルに乱入してくる。ただし、『バトルレボリューション』には愛機ドデカンが登場しないため、似たような体系と性能を持つファンキービッグヘッド型のシールヘッドで我慢することとなった。
リヒト
友達の少ない優等生。元々イヤミな性格で、終盤ではドレッド側について主人公と対峙する。使用ロボはリトルレイダー型のドレイク。
カトレア/円条寺カトレア
カスタムロボの大手製作会社ラムダ社の社長令嬢にして会長の孫。ツインドリルヘアが印象的なお嬢様。一般人の少年に「たて巻きドリルなんてはじめてみたよ」と言われていた。その立場に相応しい誇り高い性格と気品をかねそなえる。『激闘!』以前のカスタムロボシリーズでは珍しくフルネームが明らかとなっており、しかも苗字は漢字表記。時々、「遊園会」と称し、自分の屋敷の庭でカスタムロボの大会を開くことも。使用ロボはリトルスプリンター型の「ホロセウムの妖精」ベル、「ホロセウムのマドンナ」クナイ(GX)。また『激闘!』では終盤に登場。成長し、ラムダ社会長の秘書を勤める。「ホロセウムのようせい」カラット系の「カラット」を使用する。
じい
カトレアの執事をしている老人。本名は不明。執事らしく礼儀正しい性格。カトレアのことは「お嬢様」と呼び、ラムダ社会長は「大旦那様」と呼ぶ。初代では対戦することはあるものの、殆どカトレアの傍に立っているだけの登場しかしなかったが『V2』激闘編でロボ博士が用意したバトルデータで主人公と対戦する。その際、博士に「遠いところに旅立ってしまった……」と言われており、死亡したのかと思われたが、後に本人が登場し、単に休暇をもらい海外旅行をしていただけであることが明らかになる。カスタムロボ大会のシニア部門では上位の常連らしい。癖なのか、フィールド上では妙にカクカクした歩き方をする。使用ロボはファニーオールドマン型の頭源斉。
ジェイク
海外から来た黒人のコマンダー。男性であるが、セクシースタンナー型の女性型ロボ、ジェーンを使用する。フレイムガンの使い手。
ロボキチ
神出鬼没の老人コマンダー。かつてはドレッドの科学者だったが、シノノメとそりが合わず組織を去った。ヒーローもののようなテーマBGMも持つ。使用ロボはファニーオールドマン型の独眼爺、クロスボーン(GX)。
ジロウ
マモルのライバル。マモルと何度もグレートロボカップで競うが、一度も勝てておらず「永遠の2位」の異名をつけられてしまっている。自称「メタルベアー命のレイフォール・バカ」であり、メタルベアーとレイフォールガンの組み合わせに固執していたが、『V2』でゴライアスに洗脳されてからは他のガンも使用するようになった。(しかし、その時使っていたパーツはレイフォールをベースとした違法パーツ『ミナモガン』)第一作ではカリンを打ち破り叱咤したり、『V2』では主人公をタクマ塾に紹介したり、師匠のような役回りが多いが、「永遠の2位」の名のせいでイマイチ締まらないことも。さらに、『GX』では主人公に破れ、「永遠の2位」どころか「永遠の8位」だとユウスケに言われる始末。(ユウスケに悪気は無いようだ)「ジロウ」という名前がいかにも2位っぽいということから、別の名前に改名しようと考えたとか。使用ロボはメタルグラップラー型のメタルベアー、ネオメタルベア(GX)、メタルベアー(バトルレボリューション)。
アキラ
カスタムロボやコマンダーに関する事柄を取り上げる『ロボティクス・マガジン』という雑誌の記者をしている男性。仕事柄、サツキと一緒にいることが多い。カリンの兄。
サツキ
第一作の主人公達の住む街にあるロボステーションで働く女性。明朗な女性で、男の子からは「サツキお姉さん」と、女の子からは「サツキお姉さま」と呼ばれ慕われているとか。『V2』では主人公宅のテレビで映されるニュース番組のキャスターもしていた。また『激闘!』に登場するトモカとは友達同士だそうで、トモカの母親からサツキが結婚したらしいという噂話が聞ける(ただし、相手は不明)。
キャップ
第一作の主人公達の住む街にあるロボステーションの責任者。「みんなにはキャップと呼ばれているよ」と自己紹介するが、本名は不明。フィ?ルド上のモデルは固有のものだが、顔アイコンはもっておらず、ストーリーにも絡んでこないため出番は少ない。

2009年02月07日

洪武帝の死後、孫の建文帝が即位したが

洪武帝の死後、孫の建文帝が即位したが、洪武帝の四男である朱棣が反乱(靖難の変)を起こし、朱棣が永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、鄭和を南洋に派遣して、諸国に朝貢を求めた。この時の船が近年の研究によって長さ170m余、幅50m余という巨艦で、その約70年後の大航海時代の船の5倍から10倍近い船であったことが分かっている。
ドリーム ミリバ すぐき菜 ちそう パンプ ハーフ カバー しゃるどね リニュ バイオ カリソウ ノータック キシャー スモー スンドゥ ずっき じゅんか チンチラ ブタジ カーネ ロゴ チェック アクシオン ロメン 銀色の雨 マスタ ミーゴー パエリ きんあか ディン ワスプ ハロー ジスト パレード たーつぁい オテコ オープン たまりん ジャグ メラノ カーコン ツガWEB アプリ オービタル ハーフ ナビ夕立 エスアイ つくし プレイシ ハイブ

また、永楽帝によって現在に至るまで世界最大の宮殿である紫禁城が北京に築かれた。

永楽帝の死後、財政事情もあって、明は海禁政策をとり、貿易を著しく制限することとなる。このとき永楽帝を引き継いで、鄭和のようにずっと積極的に海外へ進出していれば、ヨーロッパのアジア・アフリカ支配も実現しなかっただろうと多くの歴史家は推測する。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、1449年には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件(土木の変)まで起きた。同じ頃、中国南部沿岸には、倭寇と呼ばれる海上の無法者たちが襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。倭寇とモンゴルを併称して北虜南倭というが、北虜南倭は明を強く苦しめた。

紫禁城の中心、太和殿また、皇帝による贅沢や多額の軍事費用の負担は民衆に重税となって圧し掛かってきた。これに対し、各地で反乱がおき、その中で頭角をあらわした李自成が1644年に明を滅ぼした。

17世紀初頭には、現在の中国東北地方でヌルハチが女真族を統一した。その子のホンタイジは中国東北地方と内モンゴルを征服し、1636年にはモンゴル人から元の玉璽を譲られ、清を建国した。李自成が明を滅ぼすと清の軍隊は万里の長城を越えて、李自成の軍隊を打ち破り、中国全土を支配下に置いた。17世紀後半から18世紀にかけて、康熙帝・雍正帝・乾隆帝という3人の賢い皇帝の下で、清の支配領域は中国本土と中国東北地方・モンゴルのほかに、台湾・東トルキスタン・チベットにまで及んだ。

この清の支配領域が大幅に広がった時期は、『四庫全書』の編纂など文化事業も盛んになった。しかし、これは学者をこのような事業に動員して、異民族支配に反抗する暇をなくそうとした面もあった。

明代の後期には、メキシコや日本から大量の銀が中国に流入し、貨幣として基本的に銀が使われるようになった。そのため、政府も一条鞭法と呼ばれる税を銀で払わせる税法を始めた。また、清代に入ると、人頭税を廃止し土地課税のみとする地丁銀制が始まった。また明清両代ともに商品経済が盛んになり、農業生産も向上した。

中国の半植民地化
フランス人が描いた中国半植民地化の風刺画。イギリス、ドイツ、ロシア、フランス、日本が中国を分割している。18世紀が終わるまでには、清とヨーロッパとの貿易はイギリスがほぼ独占していた。しかし、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安いお茶はイギリスの労働者階級を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは貿易赤字に苦しんだ。そこで、イギリスは麻薬であるアヘンを中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じた。しかし、中国にはアヘン中毒者が蔓延し、この事態を重く見た清朝政府は、1839年に林則徐に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌1840年宣戦布告した。アヘン戦争と呼ばれるこの戦争では、工業化をとげ、近代兵器を持っていたイギリス軍が勝利した。これ以降、イギリスをはじめとするヨーロッパの列強は中国に対し、不平等条約(治外法権の承認、関税自主権の喪失、片務的最恵国待遇の承認、開港、租借といった)を締結させ、中国の半植民地化が進んだ。

国内的には、太平天国の乱などの反乱もしばしば起きた。これに対し、同治帝(在位1861年 - 1875年)の治世の下で、ヨーロッパの技術の取り入れ(洋務運動)が行われた。

1894年から翌1895年にかけて清と日本との間で行われた日清戦争にも清は敗退した。これは洋務運動の失敗を意味するものであった。この戦争の結果、日本と清との間で結んだ下関条約により、李氏朝鮮の独立が認められ、中国の王朝が長年続けてきた冊封体制が崩壊した。

その後、清朝政府は改革を進めようとしたものの、沿岸地域を租借地とされるなどのイギリス・フランス・ロシア・ドイツ・アメリカ合衆国・日本による半植民地化の動きは止まらなかった。結局、1911年の武昌での軍隊蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、各地の省が清からの独立を宣言した。翌1912年1月1日、革命派の首領の孫文によって南京で中華民国の樹立が宣言された。北京にいた清の皇帝溥儀(宣統帝)は、清朝政府内部の実力者である袁世凱により2月12日に退位させられ、清は完全に滅亡した。

中華民国
革命後の中国の政局
中華民国は成立したものの、清朝を打倒した時点で革命に参加した勢力どうしで利害をめぐって対立するようになり、政局は混乱した。各地の軍閥も民国政府の税金を横領したり勝手に新税を導入して独自の財源を持つようになり、自立化した。

袁世凱の台頭と帝制運動(1913年〜1916年)
袁世凱臨時大総統であった袁世凱は大総統の権力強化を図って議会主義的な国民党の勢力削減を企てた。国民党の急進派はこれに反発、第二革命を起こしたが鎮圧された。1913年10月袁は正式な大総統となり、さらに11月には国民党を非合法化し、解散を命じた。1914年1月には国会を廃止、5月1日には立法府の権限を弱め大総統の権力を大幅に強化した中華民国約法を公布した。

袁は列強から多額の借款を借り受けて積極的な軍備強化・経済政策に着手した。当初列強の袁政権に対する期待は高かった。しかしこのような外国依存の財政は、のちに列強による中国の半植民地化をますます進めることにもなった。第一次世界大戦が始まると、新規借款の望みがなくなったため、袁は財政的に行き詰まった。また日本が中国での権益拡大に積極的に動いた。

1915年5月9日に、袁が大隈重信内閣の21ヶ条要求を受けたことは大きな外交的失敗と見られ、同日は国恥記念日とされ袁の外交姿勢は激しく非難された。袁は独裁を強化することでこの危機を乗り越えようとし、立憲君主制的な皇帝制度へ移行し、自身が皇帝となることを望んだ。日本も立憲君主制には当初賛成していたようだが、中国国内で帝制反対運動が激化すると反対に転じ外交圧力をかけた。1916年袁は失意のうちに没した。

袁世凱死後の政局(1916年〜1920年)
袁の死後、北京政府の実権を掌握したのは国務総理となった段祺瑞であった。段は当初国会[6]の国民党議員などと提携し、調整的な政策をとっていた。しかし、第一次世界戦に対独参戦しようとしたため徐々に国会と対立した。段は日本の援助の下に強硬な政策を断行した。1917年8月14日第一次世界大戦に対独参戦。軍備を拡張して国内の統一を進めた。また鉄道や通信などの業界を背景とする利権集団が段を支えた。1918年には国会議員改定選挙を強行した。国民党はこれに激しく対立し、南方の地方軍とともに孫文を首班とする広東軍政府をつくった。5月には日本と日中軍事協定[7]を結んだ。寺内正毅内閣失脚後に日本の外交方針が転回すると、段は急速に没落した。段の安徽派と対立関係にあった直隷派の馮国璋は徐世昌を大総統に推薦し、段もこれを受け入れた。親日的な安徽派は徐々に影響力を失っていった。1919年5月4日、山東半島での主権回復と反日を訴えるデモ行進が始まった。これを五・四運動という。なお山東半島は1922年に返還された。1920年7月の安直戦争で直隷派に敗れたことで段は失脚した。

国民革命(1920年〜1928年)
革命家・孫文袁世凱により国民党が非合法化されたのち、孫文は1914年7月に中国革命党を東京で結成した。1919年には拠点を上海に移し、中国国民党と改称した。1921年には上海で中国共産党が成立した。これらの政党は1918年のロシア革命の影響を受けており、議会政党というよりも明確な計画性と組織性を備えた革命政党を目指した。1924年国民党は第一回全国大会をおこない、党の組織を改編するとともに共産党との合同(第一次国共合作)を打ち出した。孫文はこのころ全く機能していなかった国会に代わって国内の団体代表による国民会議を提唱し、これに呼応した馮国璋により北京に迎えられた。1925年には国民会議促成会が開かれたが、この会期中に孫文は没した。7月には広東軍政府で機構再編が進み、中華民国国民政府の成立が宣言された。一方で1924年6月には蒋介石を校長として黄埔軍官学校が設立された。1925年4月に国民革命軍が正式に発足され、国民党は蒋介石を指導者として軍事的な革命路線を推し進めることとなった。1926年に広州から北伐を開始した。1927年1月には武漢に政府を移し、武漢国民政府と呼ばれるようになった。この武漢国民政府では当初国民党左派と共産党が優位にあったが、蒋介石は同年4月12日上海クーデターを起こしてこれらを弾圧し、4月18日には反共を前面に打ち出した南京国民政府を成立させた。南京国民政府は主に上海系の資本家に支えられ、北京・武漢・南京に3つの政権が鼎立することになったが、9月ごろから武漢政府も反共に転じ、南京政府に吸収された。1928年6月南京政府の国民革命軍は北京の中華民国政府を打倒し、12月に張学良もこれを承認したことから、国民政府によって中国は再び統一された。

国民政府(1928年〜1931年)
蒋介石国民政府においては基本的に国民党の一党独裁の立場が貫かれた。しかし一般党員の数は50万人以下であったとされており、4億をこえると考えられた中国国民のなかではかなり少数であった(国民の多くが「国民」として登録されておらず、しかも文盲のものも多かった)。そのため支配基盤は完全とは言えず、土地税を中心として地方政権の財源を確保する国地画分政策がおこなって、割拠的傾向がいまだに強い地方勢力に配慮したりした。1930年代前半には国民政府に叛旗を翻す形で地方政権が樹立される例が多くなり、軍事衝突なども起きた。1930年に閻錫山と汪兆銘が中心となった北平政府や1931年に孫科らがたてた広州政府などである。

しかしこのような軍事的緊張は国民政府の中央軍を掌握していた蒋介石の立場を強めることにもなった。蒋介石は経済政策[8]でも手腕を発揮し影響力を増した。

満州事変と中日対立(1931年〜1937年)
満州国皇帝愛新覚羅溥儀張作霖が関東軍に爆殺されたあとをついだ張学良は国民革命を支持しており、自身の支配していた中国東北地方を国民政府へ合流させた。このために反日運動が中国東北地方にも広がったが、日本は中国東北地方の権益を確保しようとしていたためにこれに大きく反発した。1931年9月、満州事変がおこり、関東軍によって日本政府の意向を無視して大規模な武力行動がおこなわれた。しかし列強はこれを傍観する姿勢をとったので、日本政府はこの行動を追認した。

東北地方をほぼ制圧した日本軍は、1932年に上海事変を起こし、列強がそれに注目している間に傀儡政権として満州国を東北地方に樹立した。同年10月、リットン調査団が国際連盟によって派遣され、満州国を中国の主権の下に列強の共同管理による自治政府とするべきという妥協案を示したが、日本は採択に反対した。1933年5月日中間で停戦協定(塘沽協定)が結ばれた。1934年には満州国は帝制に移行し、満州帝国となった。

1931年に瑞金に政権を樹立していた中国共産党は満州国建国時に日本に宣戦布告していたが、国民党との抗争に忙しく、中国国民で一致して日本の侵略に立ち向かうことはできなかった。1934年には瑞金は国民党により陥落し、打撃を受けた中国共産党は長征と称して西部に移動し、組織の再編をはかった。長征の結果中国共産党は延安に拠点を移した。

日中戦争(1937年〜1945年)
1937年には、盧溝橋事件や通州事件、第二次上海事変などをきっかけとして、日本軍が中国本土に進出し、中華民国と全面戦争に入った(日中戦争)。これに対し、蒋介石は当初日本との戦いよりも中国共産党との戦いを優先していたが、西安事件により、二つの党が協力して日本と戦うことになった(第二次国共合作)。

カイロ会談に出席した蒋介石とアメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相しかし日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は多くの都市を占領したが、各拠点支配はできても広大な中国において面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに各地でゲリラ戦を行い日本軍を苦しめ、戦線を膠着させた。日本は汪兆銘ら国民党左派を懐柔、南京国民政府を樹立させたが、国内外ともに支持は得られなかった。加えて1941年12月、日本はアメリカやイギリス(連合国)とも戦端を開いたが(太平洋戦争・大東亜戦争)、一方で中国で多くの戦力を釘付けにされるなど、苦しい状況に落ち込まされた。国民党政府は連合国側に所属し、アメリカやイギリスなどから豊富な援助を受けることとなった(援蒋ルート)。

結局、中国大陸戦線では終始日本側が優勢であったものの、1945年8月ポツダム宣言の受諾とともに日本が降伏することで終結した。国民党政府は連合国の1国として大きな地位を占めていたこともあり、戦勝国として有利な立場を有することとなり、日本だけでなくヨーロッパ諸国も租界を返還するなど、中国の半植民地化は一応の終わりを見せた。

しかしまもなく国民党と共産党との対立が激化して国共内戦が勃発し、結果として左派が力を持ったアメリカからの支援が減った国民党に対して、ソビエト連邦からの支援を受けていた中国共産党が勝利し、1949年10月1日に毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。内戦に敗れた中国国民党率いる中華民国政府は台湾島に撤退し、現在に至るまで中国共産党率いる中華人民共和国と「中国を代表する正統な政府」の地位を争っている。

2009年01月22日

カナダのケベックとカリブ海のマルティニーク島

フランスは当初、カナダのケベックとカリブ海のマルティニーク島、グアドループ島に入植したが、七年戦争でイギリスに敗れ、カナダを放棄した。西アフリカのセネガルも古くからのフランス植民地であった。19世紀になってイスラム圏であるアルジェリアと東洋の仏領インドシナ、南太平洋の仏領ポリネシアのタヒチやニューカレドニアなどの植民地化に成功した。これらの植民地も第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。なおタヒチでは、1990年代フランス政府が強行した核実験に反発した地元住民を中心とした解放機構が、植民地支配からの独立を訴えたが、大統領のジャック・シラクは「タヒチはフランスの一部である」と言明し核実験を強行、今も独立闘争が続いている。

オランダも17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれる。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していた。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行った。
オフチ ふくち ブラン ぶんかく プラント スマ フロック トトッ メタロ ダイオプ ブリキア パタゴニア ライン パラメータ ジューク ハンガー ビエン きつね ピラミッド ビールス バーテン トパバス パーマワ チュリア しろくま そうこ ハラーム ヒューズ デスバ ループ ティーツ ライブ イペリッ ナビオギ シーディ イザベ アカシア こじゅう オールロ ゼット パートナ リソース レサーチ シュツルー ケオキキ レモン ピッチ ラック まくわ トータル

20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っている
ロシア帝国は15世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げた。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと開拓をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ制圧した。シベリアには殖民都市を多数建設し、都市同士を結ぶことで勢力を広げた。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国を侵略、植民地化した。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件のどさくさにまぎれ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化した。

東方の併合が一段落すると、続いて全中央アジアを征服、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突した(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどとぶつかり合い、その戦費の捻出によって経済は破綻、共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅んだ。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となった。1941年にはバルト三国を、武力併合した。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義国も、名目上独立国であるが、衛星国と呼ばれた。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われている。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになった。
ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を持っていたが第一次世界大戦敗北により喪失した(ドイツ植民地帝国)。
イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持したが、第二次世界大戦の優柔不断な国政によって戦後にすべて喪失した。
ベルギーはベルリン会議の決議としてベルギー領コンゴ(ザイール共和国、のちのコンゴ民主共和国の領域)を保持していた。1908年にベルギー国王の私有地であるコンゴ自由国からベルギー政府の植民地(ベルギー領コンゴ)に移行した。1960年にコンゴ共和国として独立。コンゴの東に隣接するルワンダ・ウルンディ(ルワンダとブルンジとして独立)は第一次世界大戦後に獲得した植民地である。
デンマークは北極周辺に植民地を保有し、グリーンランド、フェロー諸島を領有していたが、現在は両国とも自治領となっている。アイスランドもかつてはデンマーク領であった。大航海時代には、デンマーク海上帝国として、デンマーク領西インド諸島、インドのニコバル諸島に植民地を保有していた。後に前者はアメリカ合衆国、後者はイギリスに売却された。植民としてよりも海運業が盛んだった。
スウェーデンは1638年に新大陸にニュースウェーデン(現在のデラウェア州)に植民。後、オランダに奪われる。植民よりも貿易に力を入れていた。ただしスウェーデンの植民地の先駆けは、中世以来のフィンランドだとも言える(バルト帝国)。近代はロシア帝国に支配されたが、現在でもフィンランド社会におけるスウェーデン社会は深く浸透しており、その影響力は非常に大きい。1784年には、フランスから西インド諸島の小島を買取り、西インド会社を設立したが、すぐに閉鎖されている。若干の殖民も行われたものの、1878年に返還された。島には、今もスウェーデン系の住民が多い。
ノルウェーは現在、北極海、大西洋上に植民地を領有している。ヴァイキング時代には、グリーンランド、アイスランドも領有していた。現在の植民地は、ノルウェー独立(1905年)以後のものである。北極海にスヴァールバル諸島、ヤンマイエン島、大西洋上にブーベ島、ピョートル1世島を領有している。また南極の一部も領有権を主張している。ヴァイキング時代の植民地を巡ってデンマークと領有権問題を起こしたが、現在は解決している。
プロイセン公国(ドイツ帝国の前身)は1683年に西アフリカに遠征し、ゴールド・コーストに植民(1720年に放棄)。更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、奴隷貿易にも携わる。
日本の植民地としては、どの地域を植民地として捉えるべきか見解が分かれており、沖縄(大東諸島、尖閣諸島を含む)と北海道、小笠原諸島も植民地として捉えるべきという少数意見もある。

しかし、主に第二次世界大戦以前の日本の植民地とされる地域については、いわゆる内地とは異なる内容・形式の法令が施行されていた点を重視し、以下の5つの地域を日本の植民地とする見解が一般的である。

台湾(下関条約による割譲)
南樺太(ポーツマス条約による割譲)
関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む)
朝鮮(日韓併合条約による大韓帝国の併合)
南洋群島(国際連盟規約による委任統治)
これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかったが、いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり外地と総称されていた。ただし、南樺太は、各地域の法令の適用範囲の確定等を目的とした共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われ、さらに1943年4月には完全に内地に編入された。

「外地」と植民地
日本の法令で植民地という用語を使用したものはないが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものは存在する上、戦前日本が締結した条約で植民地に適用しないとされたものは、実際外地には適用されていないので、当時の日本政府がこれらの領土を植民地と考えていたことは明らかである(1を参照)。

法令による規定を見ても(1)内地では帝国議会が法律を制定したのに対し、外地では行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと、(2)外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと、(3)樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えらなかったことなど、内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、学術領域ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されており、植民地であったかどうかが議論の遡上にのぼることはほとんどない。

また、日本の統治が及んでいた地域ではないが、1932年に建国された満州国を初めとして、大東亜共栄圏構想の下に、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)中に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピン、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジア)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦、汪兆銘政権など)も名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡性から日本の植民地同然だったと理解する考え方もある(満州国については、準外地と呼ぶことがある)。

日本の海外支配地域を植民地とすることへの異論
日本の保守系の論壇誌やウェブサイト等における主張など、学術的な正確性が担保されない場などでは、同年代に植民地と呼ばれた地域とはその当地の内実(欧米のそれが非人道的、非合法、収奪的であるのに対し日本のそれは人道的、合法、恩恵的である、など)が異なるあるいは、領有に至る経緯に至る経緯(一般に植民地化は無主地先占の法理によって行われることが多かったが、日本の朝鮮や台湾は文明国間の条約による併合や割譲という法形式によって獲得された)が異なるという認識から日本の海外支配地域を植民地と呼ぶのは妥当ではないという意見もある。

また、大韓民国にあっては、韓国併合を違法無効とする立場から、日本の朝鮮支配は植民地支配ではなく、単なる軍事占領であるという見解も存在する。

2009年01月15日

日本でも極たまに目撃談があり

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現在の日本でも極たまに目撃談があり、ツチノコと並んで日本を代表する未確認生物とも言える。

また、その類の生物としては珍しく、愛くるしい姿で描かれることが多い。水辺に住んでいると伝えられるためか、河川や湖沼の水質汚染防止及び環境保護のマスコットキャラクターにされることが多い。

呼び名
各地方毎に様々な名で呼ばれている。

「河童」の訛りとしてガワッパ、ガワワッパ、ガラッパ(熊本県八代地方、鹿児島県川薩地方)、河太郎の訛りとしてゲータロ、ガタロウの他、水蛇の訛りと思われるメンドチ、メドチ、ドチガメなどがある。

また、これらとは全く別系統のものとして、高知のシバテン(芝天狗の略)、愛媛県宇和地方でのエンコ、岐阜県大野郡や和歌山県でのガオロ[9]、岡山県(主として津山市)でのゴンゴ、対馬(長崎県対馬市)などでの河虎(かわこ)[10]、大分県玖珠郡での川者(かわのもの)[11]、熊本県飽託郡(現・熊本市)での旅の人(たびのひと)[12]、鹿児島県トカラ列島のガウル[13]がある。

各地の伝承

筑後
福岡県の筑後川付近には「河童と地元民との揉め事」や「河童族同士の戦争」の伝説や「河童に因んだ地名」など比較的年代が明確ではっきりした記録が数多く残っており、少なくともその当時「河童」と呼ばれたものが川辺付近に多く住んでいたと思われる。

特徴は全身が毛に覆われている「類人猿形態」。筑後地方の河童は100匹以上の集団生活を営んでいたらしく、川の上流から海の傍まで幾つかの集団に分かれて生活していたらしい。更には人語を理解し、人間との複雑な契約も行っていたことから、河童は少数民族ではなかったかとも思われる。昭和初期まで河童を見た人が比較的多く居るのでこの時期に絶滅したのかも知れない。

「水に入る前にはタケノコを食べる」「水に入る前には仏前飯を食べる」といった河童除けの風習は久留米市の水天宮付近が起源とされる。毎年8月には、水の祭典という祭りが行われる。これは、元々河童を崇めるために始まった祭りである。

久留米市民図書館では、河童をモチーフとした置物があり、久留米市ではカッピースタンプというものがあり買い物をして集めるものである。

牛久沼と小川芋銭
茨城県の牛久沼には、「悪さをする河童を捕まえ松の木に括り付けたが、改心したので逃がしてやると、河童が草刈りをしてくれた」、「河童の手を拾って河童に返したところ、河童が万能の膏薬の作り方を教えてくれた」等、河童にまつわる伝説が多く残っている。

生涯のほとんどを牛久沼のほとりで暮らした日本画家の小川芋銭は、河童を好み多数の河童の絵を残したことから『河童の芋銭』として知られている。晩年には画集『河童百図(1938年)』を出版している。

実在性

河童のミイラ
現在河童のミイラや河童の骨などと呼ばれる物は、多くは江戸時代のミイラ造形師が他の動物の部品を組み合わせて作った物である。好んで用いられたのはエイと猿、また、フクロウの頭部を使った物もある。また河童の手首のミイラと呼ばれる物のほとんどはニホンカワウソの物である。

福岡県の北野天満宮には「河伯(かはく)の手」と呼ばれる河童の手のミイラがあり、901年に菅原道真が筑後川で暗殺されそうになった際、河童の大将が彼を救おうとして手を切り落とされた、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童の手を道真が切り落としたものとされる